石川県の郷愁を誘う石畳のある風景

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長町武家屋敷通り
長町武家屋敷通りの画像
場 所 ・石川県金沢市長町
種 別 ・城下町・武家町
備 考 長町金沢城の城下町の中でも現在最も武家町の雰囲気を残している町です。地名の由来は加賀藩の中でも1万石を超える大身を加賀八家と呼ばれ、その中の一家である長家が屋敷を構えていたとされます。長家の屋敷が別地に遷ると中級の武家屋敷の町として改めて町割りされ、現在でも野村家や高田家、大屋家、新家家、天野家、清水家、高西家などの武家屋敷が残されています。修景計画も積極的に行っておりランダムな三角形、四角形、台形型の石材を組み合わせた「乱張り」形式の石畳みが整備されています。

ひがし茶屋街
ひがし茶屋街の石畳の懐かしい町並みの写真
場 所 ・石川県金沢市東山1丁目
種 別 ・茶屋街
基 準 ・伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
備 考 東茶屋街は加賀藩が設けた遊郭が前身の町で、城下町の風紀を正すため、享楽的な施設を街区を分けて出入りを制限しました。現在でも当時の茶屋建築が軒を連ね、茶屋街独特の町並みが色濃く残され国選定重要伝統的建造物群保存地区(金沢市東山ひがし伝統的建造物群保存地区)に選定されています。修景計画も積極的で写真は路地的な通りですが、メインストリートでも四角い石材を前段と後段で半分ずらして敷く「馬踏み」形式の石畳みが整備されています。

にし茶屋街
にし茶屋街の歴史が感じられる石畳がまぶしい写真
場 所 ・石川県金沢市野町2丁目
種 別 ・茶屋街
備 考 西茶屋街は加賀藩が設けた遊郭が前身の町で、城下町の風紀を正すため、享楽的な施設を街区を分けて出入りを制限しました。西茶屋街は東茶屋街とは異なり近代的な飲食店街と隣接していた事から伝統的な茶屋建築を改造する例も多く東茶屋街程ではありません。近年は町並みの修景に力を入れ当時のような茶屋街の景観が見られ、路面は東茶屋街と同様に四角い石材を前段と後段で半分ずらして敷く「馬踏み」形式の石畳みが採用されています。

主計町茶屋街
主計町茶屋街
場 所 ・石川県金沢市主計町
種 別 ・茶屋街
基 準 ・伝統的建造物群が全体として意匠的に優秀なもの
備 考 主計町茶屋街は加賀藩が設けた遊郭が前身の町で、城下町の風紀を正すため、享楽的な施設を街区を分けて出入りを制限しました。主計町茶屋街は東茶屋街と西茶屋街とはやや異なり明治2年に遊郭として認められ東茶屋街の隣地に町割りされています。あまり規模は大きくなく、廃藩置県で加賀藩が廃藩になった以降は主に石川県や金沢市官庁街関係者が利用していたようです。浅野川に面していた事から通常の茶屋建築に3階部分が増設され、3階から浅野川を眺めながら飲食を楽しめるような特徴を持っています。現在でも当時の茶屋建築が軒を連ね、茶屋街独特の町並みが色濃く残され国選定重要伝統的建造物群保存地区(金沢市主計町伝統的建造物群保存地区)に選定されています。路面は四角い石材を前段と後段で半分ずらして敷く「馬踏み」形式の石畳みが採用されています。

小松天満宮
小松天満宮
場 所 ・石川県小松市天神町
種 別 ・参道
備 考 小松天満宮は明暦3年に前田利常が隠居城として小松城に入った際、小松城から見て北東方向に当たる当地に鬼門鎮守として遠祖である菅原道真の御霊を北野天満宮から勧請し開創したと伝わる神社です。以来、加賀藩前田家や小松城の城代から篤く信仰されました。境内全体は北野天満宮の四分の一に縮小した伽藍配置とし神具は北野天満宮のものを模したもの、神官(別当)は北野天満宮から能順(連歌師)を招きました。参道は何度かクランクし長方形の石を、前方に向かって縦長に敷く短冊4列型の石畳みが敷きこまれ、左右には縁石と側溝が整備されています。

那谷寺
那谷寺
場 所 ・石川県小松市那谷町
種 別 ・参道
備 考 那谷寺は養老元年に泰澄大師が霊夢に出現した千手観世音菩薩を模した千手観音像を彫刻し霊地である岩窟内に開創したと伝わる寺院です。寛和2年に花山法皇が参拝に訪れた際、西国三十三観音霊場全ての霊気を感じ取った事から1番札所の那智山青岸渡寺の「那」と33番札所の谷汲山華厳寺の「谷」を取って寺号を那谷寺に改めました。その後は白山信仰の拠点として大いに栄え白山三ヶ寺に数えられ支院、僧坊合わせて250ヶ寺を擁していたと云われています。参道は風致に富み苔むした庭園を貫くように配され中心は長方形の石を、前方に向かって縦長に敷く短冊3列型の石畳みが敷きこまれ、縁石を挟んでランダムな三角形、四角形、台形型の石材を組み合わせた「乱張り」形式の石畳みが整備されています。

一本杉通り
七尾市:一本杉通り
場 所 ・石川県七尾市
種 別 ・門前町
備 考 ・七尾市は中世、七尾城の城下町として発展した町で、七尾城が廃城後は前田利家によって小丸山城が築かれました。一国一城令で小丸山城が廃城になると加賀藩の所口町奉行所が設けられ当地域の行政の中心地として整備されました。一本杉通りは木越山光徳寺の門前町だったとされ現在でも国登録有形文化財に登録されている古民家や看板建築が軒を連ね、町並み修景計画の一環として長方形の石を、前方に向かって縦長に敷く短冊型の石畳みが敷きこまれています。

加賀橋立
加賀橋立
場 所 ・石川県加賀市橋立町
種 別 ・船主集落
基 準 ・伝統的建造物群及び地割がよく旧態を保持しているもの
備 考 加賀橋立町は景行天皇17年に石巣宿弥が開いたと伝えられる町です。当初は素朴な漁村でしたが江戸時代に入り前田利治が大聖寺藩が立藩すると藩庁が置かれた大聖寺陣屋と距離が近く便が良かった事から外港の一つとなりました。特に北前船の西廻航路を開削されると寄港地にはなりませんでしたが、海上での荷揚げや荷降ろしが行われ、ここから大聖寺陣屋の陣屋町に物資が運ばれていきました。又、財力を持った家々は今度は北前船の船主となり、寛政8年に編纂された「船道定法之記」によると加賀橋立町には42人の船主が名を連ね100隻を超える北前船を所持していたと記されています。現在も明治時代に建てられた船主の屋敷が残され独特の町並みが残され、修景計画の一環として四角い石材を前段と後段で半分ずらして敷く「馬踏み」形式の石畳みが整備されています。加賀橋立町の町並みは国選定重要伝統的建造物群保存地区(加賀市加賀橋立伝統的建造物群保存地区)に選定されています。

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